昭和五十年十一月七日 朝の御理解
御理解第五十三節 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ」
やはりなかなか目に見えないおかげはわかりません。信心がいよいよ深まりませんと、信心がいよいよわかって参りませんと、おかげをおかげと気付きません。おかげをおかげと気付けば気付くほど、感謝の心、有難い勿体ないの心は自ら拓けて来るのですけど、その有難いという度合いが低い、小さい。そこでおかげも、浅い。又は小さい信心、おかげに終わるのですから、やはりおかげをおかげとわからしてもらう信心。
ためには先ず私は、おかげを受けなければいけません。目に見えるおかげを受けなければいけません。目に見えないおかげは、なかなか信心が深まりませんとわかりませんけど、目に見えるおかげ。目に見えぬおかげを、おかげをおかげとわからせて頂くようになったら、まあそれこそ、「あれもおかげであった。これもおかげであったとわかるようになると本当の信者だ」と仰るように、本当の信者になると、あれもおかげ、これもおかげと一切が……。
昨日の御理解にもありますように、石井喜代司さんが朝の起きがけにお知らせを頂かれたのが、「合楽の信心は感謝」ということを頂いたと。これも合楽の信心に限らんのですけど、合楽では確かに、そのことばかり皆さんに聞いて頂いとるわけです。言うなら、あれもおかげであった、これもおかげであるということは、その場でわかれと合楽では言うのである。
一切がおかげと。「ああ、困った」と信心のない人が言うても、「それはおかげじゃが」と言われる信心と言えるというのです。 「さあどうしようか」と、まあ信心のない者が言うても、「ほらもうおかげを頂いた」と言えれる信心を……。それはもう、あれもおかげであった、これもおかげであったではない、即おかげということになる。難即おかげということになる。
だから、難というものはないんだというような、究極のところ、そうなって行くのでなければいけんです。だから、そういうおかげを頂くために、先ず、目に見えるおかげを頂かねばいけません。ほんなこつあらたかだなと、目に見えるおかげが、ああ、有難いとわからしてもらう。その有難いという心で、あれを思い、これを見るのですから、あれもこれも、ああ、おかげということがわかる。
どんなおかげであってもね、有難いという心ではない、反対の心で見ては、おかげをおかげと思えません。却って不平不足の種になる。不満の種になる。だから、先ずはおかげを頂かねばならん。今の金光教の信心の中で、そのおかげということ、霊験ということ、いわゆる御利益ということを軽視することがある。おかげ話をしてはいけないというような、共励会等では言う人がある。
そんなことじゃない。それこそ金光様の信心をすれば目を見張るような、それこそびっくりするような御利益を頂けるというような、頂いたらそれを発表せねば居れない。だから、そういう、私はおかげを頂かなければならんと思うのですけど
昨日、今教団で言っておる、来年の六月を期して新たな、「御取次成就信心生活運動」が再検討されて、今その再検討中であります。そしていよいよ来年の六月からですか、まあ、革命的な運動が起こされるごとなっとりますのに、色々と研究がなされとります。
それにいろんな、箇条書きに書いてあります中にです、霊験信仰を、この度起こされるところの運動の中で、どう位置づけるかというところがあります。おかげ、霊験というものを、今度の運動のどの辺に位置づけるかということ。まあどういうことになるかわかりませんが、まあ下の方へ位置づけるのじゃないでしょうかね。そんな感じがするです。
霊験信仰というものは、もう程度が低いというように言われて来たし、また私は信心でね、私はこの霊験ということを第一に上げるべきだと思うですね。そりゃ金光様に参って見なさい、どげなおかげでも頂けれるというのが、私は第一でなけりゃいかんと思うです。それではいけんと言うて、まあ言う人達もあります。
それは勿論信心を第一主義、信心がわからなければということでございましょうけれどもです、私は霊験だと思う。私は霊験あらたかなのでなければ宗教じゃないです。だからどこに位置づけるかと言うて、第一番に位置づける価値あるというならば、霊験だと思うです。だからそういう霊験をです、先ずは頂かねばいけない。形に現れる、目に見えておる霊験である。
先ず信心を頂くようになると薬箱を要らなくなってくるね。皆健康になって来る。次に、貧困がなくなって来る。次には、争いがなくなって来る。いわゆる貧争病のない世界がやって来る。私はこれ程はっきりしたおかげはないと思うです。信心をしよった時分には、全然本当に、薬医者代をころころ払いよった時代はもうこう沢山、もう薬箱は絶やされなかったと言う人のところに、薬箱がなくなる。
一遍に億万長者になるということじゃありませんけど、本当にお繰り合わせを頂いて、必要な時には必要な金銭のお繰り合わせを頂けれる。おかげを頂いて、争いというものがなくなって来る。よしあったにしても、なら明日親先生にお願いしてみようということになりますから、もう本当にその場で解決する。私はそういうおかげをですね、合楽に御縁のある人達は皆おかげを頂いていると思うです。
そりば、頂き足らんごと思うから、銀行に沢山の預金がなからにゃ、そのいけんように思うたり、もうとにかく私はこれ程はっきり目に見える、見えたおかげはないと思う。合楽に例えば、一年二年と信心を続けておられる方なら、そこの体験を皆頂かれるだろうと思うです。けど、その頂き足らんような思い方をするから、有難いというものになって来ないのです。
いや、言われて見ると、考えて見ると、成程貧争病のないおかげを頂いているなあということがわかったらね、いわゆる形にそれが表れて来ているんですもの。形の上に表れているおかげを頂いても、おかげをおかげと頂き切らず、不平不足だけしかないといったようなそげなことでは、いつまでもおかげは頂けん、そげなことでは。先ず私は、合楽の方達はそこに気付かにゃいかんと思うです。
ああ、家はまだ借金がありますからと、その借金もおかげを頂いて、徐々に段々お繰り合わせ頂いておかげを頂いとるじゃないか。いよいよギリギリの時に、さあ、いついつの手形と言って、飛び込みのようなお願いさして頂いて、やっぱりおかげを頂いとるじゃないか。第一健康の上にも。それを沢山お金を持っておる人を見たり、立派なお家に住んでおる人を見たりしてです、まあだ頂いても頂いても、頂き足らんような思いをするようではです、いつまで経ってもおかげになって来ない。
私は先年、ある教会からの方達が団体で参拝して見えた、五十何名。話を聞きますと、何ですかね、御理解がない。只、助かることだけは助かる。それで沢山のおかげを頂いておられる。その中から五十何名の方達が参って見えられた。私は驚いたことは、その一人一人がですね、何とはなしに一騎当千の信者さんばかりであるのに驚きました。そして多いことは、教育家が多いことにまた驚きました。言うならばお話は出来なさらん、けれどもやはり御利益だけは、もうとてもそれはあらたかに頂くという。
私は本当に先生方に、これを読ませて頂きよってから思うのですけれども、もう本当に御利益がどんどん頂けるところには、信者は絶対育つです、放っといても。おかげをやり切らんで、信心を与えよう、そして信心をわかれと言うから、いつまでもそりゃもう本当に偉いというより、偉そうなね、先生のところがありますよ。そりゃお話なんかピシャリしなさるばってん、教会は非常に寂しいという教会があります。自分ところでも信心だけしか説かん、おかげはやらんというごたる感じです。やり切らんとじゃん。
私はおかげを頂いてね、金光様の信心を頂いて、本当に御利益を頂きだしたらです、もうその絶対その教会にはね、良い信者が育つです。だから問題は霊験を頂くことが第一だと思うです。どこに位置づけるかと、先ず一番目に位置づけにゃいけんです。 「願う氏子におかげを授け」と仰る。願う氏子におかげを授け切らんようじゃでけん。
私は本当にそういうところから、今度の、言わば程度の低いところにおいてあった。それこそどこに位置づけるといったようなことをいうような金光教になっていることは、御利益を私は一番に上げられるような在り方にならなければいけん。御利益を頂いて、有難い勿体ない、それは我情我欲で、おかげおかげと言いよるけれども、おかげを頂くと、段々段々信心の言わば有難さ、おかげの有難さ、その有難いというところで、ものを見たり聞いたりするようになるから、第一人間が変わって来る。自ずとそこに教えを頂くのですから、良い信者が育たないはずがない。
ほら、信心をわかれ、信心をわかれ、信心がわかるとおかげになるという行き方は、どこまでまあわかったら、おかげを頂くかと言いたいくらいにあります。私は思うのにね、先ず私は、おかげを頂かねばいけない。霊験を頂かねばいけない。そして自ずと、信心はあれもおかげであった、これもおかげであったとわかるようになる。
霊験を頂かねばわからん。あれもおかげであった、これもおかげであったとわかるようになる。そこには、いわば本当の信心がわかる、本当の信心がわかって来る。そりゃもう本当にね、わかるところをわからしてもろうておかげを受けて行くから、わかることの楽しみにね、出て来るです。
今北海道に、【乙犬】という先生が布教しておられます。もう何十年になるでしょうけれども、先年そこの息子さんという方が、大変なかなか教学者です。教団でも有名に、やはり教学を修めておられる先生です。その息子さんが一晩泊まりでここへ見えられました。福岡が親教会、で福岡の教会に北海道から参拝になって、そして合楽合楽と言うことが北海道で知られておるわけでしょう。是非一遍行って見たいというので見えられまして、いろいろお話を聞かせて頂いて、以前に、私は福岡の吉木先生から御説教の中でお話を頂いておった。
ある時にお参りになった。それこそもう見るからに根性の悪そうな、意地の悪そうな感じの人がお参りして来た。子供さんが目が見えなくなって、いわゆるもう失明しておる。そういう人が金光様でおかげが頂けるならというて参って見えられた。そこで吉木先生、御神前に出て、そのことを御取次をなさった。ところが神様から、「子供の病気は親の病気」ということを頂かれた。
そこで、「子供の病気は親の病気」ということを基にして、話になったのです。親が改まらにゃいけん。親が変わらにゃいけん。もう懇々と説かれたらしい。その方のお母さん、ここに見えた方のおばあさんになる方。その方も大変、お産婆さんのようなことをしておられました。後から聞きましたんですけど、随分とめぐりを積んだ方、非常に意地の悪い、根性の悪い顔をしておられたということです。そして、その親子の仲が、もうそれこそ切らば突くような、仲が悪かったそうです。
そこでその【乙犬】先生のお母さんという方が、「子供の病気は親の病気、親の病気は子供の病気」と頂かれた。つくづく感ぜられたことがです、自分自身が親に対するところの、言わば不仲のこと、親を親と思うとらん。自分のことをしみじみ思うて帰られた。それで帰られてから、お母さんに今日頂いた御教えの中から感じらせて頂いた。
その親子の仲のことを思うて、お母さんに手をついてお詫びをされた。本当に長い間あなたに盾ばかりついて、本当に親を大事にしなかったことを、親不孝であったことを、もう心から詫びられた。そしたら、お母さんもね、もう本当にそれこそ、詫びられたで、 「そりゃもう、あんた達が悪いとじゃなかった、私が悪かった」と言うて、親子が手を取り合って詫び合ったということです。その子供さんは、お母さんとおばあさんの前で遊んでおられた。新聞紙があったが、何かして遊んでおられたが、ハラハラハラハラと音がした。そしたら子供さんの目から涙が流れていた。それっきり見えるようになったという訳なんです。
その見えるようになった、その方が先年ここに見えた。それが御神縁の始まりで、本当に金光様の信心の在り方、そういう霊験を受けての、いよいよ信心が手篤うなって、そして道の教師を志されて、しかも北海道三界までもです、布教に出ようと、女ながらもそういうおかげを頂いて、だから霊験を受けながらでなからねば続かんです。
勿論そこには、本当に改まるところを改まられての、言わば神様のお心に通う状態にならせて頂いたところから、おかげが現れて来るものなのですけど、そのおかげを軽く見たのでは、いよいよおかげが受けられんようになる。先ずはそういうおかげを頂いてはじめてです、段々信心がすすんで来て、あれもおかげであった、これもおかげであったとわかるようになる。
わかるようになれば本当の信者と、ここでは本当ということを真実と書いてありますね。真実本当の信者と。だから本当の信者を目指すためには、私共は、目に見えるおかげより目に見えないおかげが多いと仰る。だから先ず、目に見えるおかげより、そして目に見えぬおかげに進展して行く。わからして頂いて、そしてあれもおかげ、これもおかげであったというようなおかげを頂かしてもらわねばならん。
私は先ず、私は合楽で御神縁を頂いている人達は、本当に合楽に御神縁を頂いてこの方、段々貧争病のないというものが、おかげというものがそこまで開けてきておる。もう確かに見えておるじゃないか。第一病気をせんじゃないか、薬箱が要らんじゃないか。こげんはっきり見えるじゃないか。それを私共の心の中に、頂き足らんような思い方がです、それを、おかげをおかげと実感する、じっと目をつぶって思うて見てです。
本当に言われて見れば、あれもおかげ、これもおかげと言うおかげの中にあることを先ず一つわからして頂いて、その有難いという心で、全てを見るのである。全てを聞くのである。そこから、いよいよ目に見えない、いわゆるおかげと言うのですかね、本当のおかげというものは、本当に氷山の一角と言われるのですが、その目に見えないおかげを段々深く広くわからせて頂くのですが、おかげも信心も深くなる筈です。
おかげを大事にしなければいけません。勿論盲人が目が開いたというようなおかげもさることながら、第一です、貧争病のないおかげを頂いているような、その一つでもおかげを頂いておる。信心するようになって、この方のおかげというものを思うて見たらです、自ずと心の中に有難いものになって来る。その有難い心で願う、有り難い心で見るのである、心である。その私は感謝の心がね、足らんのではないかと思います。
目に見えるおかげをです、まあだ頂き足らんような思い方が、有難いというものが薄いのじゃないかと思います。有難い心がつのればつのる程です、目に見えないおかげがわかって来る。然もあれもおかげ、これもおかげとわかれば真実の信者だと仰る。その本当の信心がいよいよ身について来るようになって来るのです。
今日は私は、目に見えぬおかげが多いということをわからなければなりませんが、先ずは目に見えておるおかげに対して、私共は、無関心ではないけれども、まあだおかげを頂き足らんような頂き方をしているのではなかろうかというところを聞いて頂きました。どうぞ